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キーワードで読む情報教育 28
総合的な学習
〜ココが気になる、7つのポイント〜
中川一史のキーワードへの道案内
総合的な学習が本格的にスタートした。私も全国の学校の総合的な学習に関わってその学校と共同で実践研究を行っている。全国各地の学校ではさまざまな取り組みが行われているが、実践に取り組めば取り組むほど、その奥の深さを感じられているのではないだろうか?本稿では、そのような実践の取り組みからさまざまな視点で再検証していこうと思う。

気になる1:課題は本当に子どもにとっての学びに結びついているのか?
総合的な学習は新学習指導要領の総則に、ねらいとして、
(1) 自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること、
(2) 学び方やものの考え方を身につけ、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること、
と明記されている。
そうなると、「直面する様々な生活実践の中で課題解決場面をいかに含みこんでいくか」が重要になる。しかし、実際の授業を見ると、課題が本当に課題になっているかというと、???(ハテナ)をつけたくなる。

○「すぐに調べさせ」ていないか?
総合的な学習の1つのスタイルとして、課題をつかみ、それを調べ(追究し)、まとめてなんらかの形で発表する、ということがあげられる。これ自体がいけないというわけではないのだが、ちょっとテーマを与えただけで「では調べてみましょう!」という活動をたくさん見てきた。つまり、子どもたちにとっては課題意識が十分に高まっていないうちに「先生に調べさせられている」わけだ。時には課題を把握していないうちにグループの子についてまわっているだけの子がいる場合もある。

言うまでもなく、「課題に対するねりあげを十分にしているか?」が重要になってくるわけだ。時間1つとっても、この課題把握(問題をつかむ)の部分への単元の時間配分はもっと多くても良いはずだ。

総合的な学習では、教師が予定していた課題とは違った現実の問題にも直面する。それらの課題を教師がキャッチし、どのように個々へのサポートをしたり、活動全体をコーディネートできるかという部分が求められているわけだ。

○活動は「予定通り」に終わっていないか?
以前、ある学校の4年生の国際理解で、中国人の方を招いての学習活動が展開された。中国の方が毎日飲んでいるという「おいしい」お茶を飲ませてもらって、中国という国の文化をいっそう理解し、交流を深めるという活動を参観した。中国の方がなごやかに登場し、やがて日常の様子をたどたどしい日本語で子どもたちに説明した。その後、中国では家族全員が毎日飲んでいるというお茶を子どもたちにふるまってくれた。子どもたちはうれしそうに口にした。ところが、子どもたちの表情がさえない。担任の先生がその表情にしびれをきらして、「どう?おいしいでしょ?」と聞いた。ところがやはり反応はイマイチ。そこでとうとう先生が「おいしかったと思う人は手をあげて!」と言ってしまった。まわりの子の様子を見ながら、迷う子どもたち。少したって34人いる子どもたちの中の3人の子が手をあげた。先生はとまどっていたが、時間も気にしながら予定されていたこともあるのでそのまま活動は中国の遊びを習うということに移っていった。

さて、この活動の総合的な学習のねらいを見ると、「中国の文化を自分なりに理解する」ということが書かれている。子どもたちにとって、本当に理解するべき活動になったのだろうか?

子どもたちにとって、あのお茶は「口に合わなかった」のだ。どうしてこれを毎日飲むのかわからなかったわけだ。しかし、せっかく忙しい時間をさいて自分たちのためにお茶をふるまってくれた。そういう意味では「おいしかった人!」の先生のよびかけに手をあげるべきかもしれない。だけど、やっぱり口に合わない。そういう葛藤が子どもたちの中にあったはずだ。子どもたちの中国に対する文化理解の糸口(課題)は、ここからはじまるのではないだろうか?なぜあの自分たちには口に合わないお茶をおいしいといって毎日飲んでいるのか、と。このように具体的な体験に出会うことで課題が生まれる。それを教師が課題として感じられるかどうか、にかかっているのだ。

予定通りに粛々と進めることにとらわれては見えるものも見えなくなる。時には「予定を変更する勇気」も重要だ。次の項ではもう少し分けて述べていこう。

気になる2:「予定通り」に進めて過ぎていないか?
総合的な学習のすばらしい点は、その自由度の高さにある。教科書などにしばられずに、自分(あるいは学年や学校)で活動計画をたて、大幅な予定変更もできる。しかし、そのような良さを活かすも殺すも教師次第だろう。

○予定を柔軟に変更できる勇気を
総合的な学習では見通しはもつものの、外部の方との関わりや取材活動など、教師にとって不確定要素が多い。お菓子作りをしていくうちに予定では校内の先生につくってふるまうことになっていたのが、「もっとおいしいお菓子作りを追究しよう」ということで、再度、専門家にアドバイスを求めよう、ということにもなるわけだ。そのときに子どもたちの思いに寄り添い、当初の予定にしばられずに判断できる度量が教師には求められる。

○予定を延長する勇気を
総合的な学習の流れでは、課題をつかみ、調べ、まとめて、最後に伝えるというパターンが多い。もっと言うと、最後に発表会という実践によく出くわす。ただ、地域の人や専門家に発表して終了!というところに実は新たな課題が生まれてくることも少なくない。発表したからこそ、見えてきたこともあるはずなのだ。そのときにあなたならどうするのだろう?もちろん、年間の時数もあるので、やみくもにはいかないだろうが、その後の活動との軽重を調整する必要があろう。そのようなことも視野に入れて柔軟に対処したい。

○予定を捨てられる勇気を
逆に当初思っていたより、学びの場面が見られないこともあるだろう。活動をやってもはいまわっているだけという悪循環に陥ることもある。そのようなときに、思い切って予定を切り上げたり、捨てる勇気を持ちたい。そのような兆候が見られたときに強引にひっぱっていくことで、子どもたちに総合の楽しさから苦痛だけが残ると本末転倒な話になってしまう。

○柔軟なカリキュラムの組み方を
上記は予定したものに対しての提言だが、むしろ、カリキュラム自体が柔軟であることがベターだ。時間にしても、流れにしてもどちらに流れていってもよいように、あえて活動の流れの順番をつけずに並列に活動をあらわしたり、最初から時間はかかるものと見込んで多めにとったりして活動案をたてている学校も出てきている。いずれにしても、「きっちり予定通りにいかない」ということを念頭に置いているかどうか、だ。

気になる3:子どもたちの「調べて、まとめて、伝える」力が弱くないか?
詳しくは「キーワード:情報活用の実践力」に譲るが、総合的な学習や情報教育関連の学習活動において、子どもたちが自分のテーマをもって、課題を解決しようとしたときに、発表の仕方や情報収集など、いわゆる「調べる、まとめる、伝える」ことに関するスキルが十分に育っていないことが特に小学校で目につくのは私だけだろうか。

各学年での総合的な学習のカリキュラムをにらみ、情報活用の実践力が育つ活動場面の「つながり」を意識しながら、うめ込んでいく必要がある。たとえば、6年生になって相手に応じて効果的な伝え方でわかりやすく伝えることができるようになるために、4年生でコンピュータでプレゼンソフトを使って発表する機会をもつとか、低学年では近くの人(先生とかクラスの友だち)に家族の紹介ができる、というように。つまり、「誰に伝えるか」という対象を徐々に広げていくように、どのような方法で発表するかというバリエーションが増えるようなカリキュラムになっていることが重要だということだ。

気になる4:総合的な学習の評価を見直そう
○総合的な学習の評価の難しさ
このごろ、総合的な学習の評価の難しさに直面する学校を数多く見てきている。いくつか傾向は見られるが、そもそも教科の目標、単元のねらいが明確にある教科学習に対して、「問題解決能力の育成や自らの生き方を考えることを第一義」にし、「全員が身につけなければならない知識や技能が細かくあるわけではない」総合は評価をすることが難しくて当然だといえる。しかし、だからこそ各学校で「つけたい力」を明確に、意識的に位置づける必要があるわけだ。そのような意味では、子どもの学びを評価するのは、つけたい力の抽象・具体のレベルにポイントがある。たとえば、「コミュニケーション力をつける」では3年生にも6年生にも大切になるわけだが、これだけではどうしようもない。ある学校では、これをいくつかの具体に落としている。たとえば、「相手に自分の思いを伝える」をあげている。さらにそこから、高学年では、「メディアの特性を理解して効果的に自分の考えを伝える」と「自分の考えの根拠を示して主張する」を明記している。ここからは、具体的な総合の一つひとつの活動の中で、ねらっている子どもの姿がどのように見とれるか、ということとのすり合わせになる。

○評価は何のためにするのか
総合の評価は何のためにするのか…一度ここから考え直してみるのも良いだろう。私は、子どもの視点と教師の視点でこのことを考える必要があると思っている。
子どもたちにとっては、「子ども自身の励み、自信」(今)になり、「次の活動への見通し、活力」(次へ)になるために評価を行うわけだ。評価を行うことによって、子ども自らの学びが阻害されたり停滞されたりすることは本末転倒だ。また、教師にとっては、短期スパンでは「教師の子ども理解を深め、次の対応策や指導・助言のあり方を改善・工夫するために」行うのであり、長期スパンとしては「教師のカリキュラムの見直しのために」行うわけだ。
子ども 教 師
今 子ども自身の励み、自信
短期 次の対応策や指導・助言のあり方を改善・工夫
次 次の活動への見通し、活力
長期 カリキュラムの見直し
○最終的にどんな姿をめざすのか?
子ども自身がいろいろな場面で振り返るとき、最終的にはどんな姿を教師はイメージしているのだろうか?私は「いずれは一人でいろいろな評価の情報をもとに自分で自分のことを振り返り価値づけが行えるようになることを目ざしている」のではないかと思う。そうなると、自己評価力を育てる支援をどのようにするのかが大事になってくる。とは言うものの、子どもにとって、自分の状況を自分自身でモニターするのはかなり高度だ。自己評価に、相互評価や専門家などの他者評価がどのように効果的に組み合わせられていくかが重要だ。また、評価場面での教師との対話もポイントになる。たとえば、子どもたちが自己評価カードを書いていれば良い、のではなく、なんでも否定的に書いてしまう子には「ここはこんなにがんばっていたでしょ」と教師が励ましの言葉をタイミングよくかけてあげることも大切だということだ。

○評価のコストパフォーマンスを吟味しよう
総合的な学習で評価について特に実践研究を深めている学校を見れば見るほど、1つの危惧を感じる。それは、「評価を一生懸命にやればやるほど評価のための評価になっているのではないか?」ということだ。教師もだんだん評価に追われて苦しくなる。当然、子どもたちも苦しくなるわけだ。そこで、今やっている評価が「何を評価し、判断し、実際に何が得られるか」について吟味する節目を入れる必要がある。評価する行為が実際は子どもたちの活動の妨げになっていないか?振り返りカードのなど量、内容、タイミングなどについて、検討していく必要がある。
 

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